徒然草的现代日语翻译
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解决时间 2021-02-01 19:33
- 提问者网友:暗中人
- 2021-02-01 03:30
徒然草的现代日语翻译
最佳答案
- 五星知识达人网友:七十二街
- 2021-02-01 04:49
翻译好的给你!!!
第15段 旅に见る
その目的地がどこであろうと、しばらくの间旅に出ると新鲜な気持ちになれるものである。
旅の途上であちこち见て歩き、それが田舎びている所であったり山里であったならば、ことさら沢山の物珍しいものに触れることができる。都への近况确认の手纸に「あの事や例の事に関して、よろしく忘れないように頼む」と记すのもまた味なものだ。
旅行中だからこそ、様々なことにも気がつくものである。手持ちの道具までもが、良いものはなお良く思えるようになり、才のある人や美しい人もまた、いつもよりも素晴らしく立派に见えてくるものである。
寺や神社にそっとこもるのもまた趣深いものである。
第18段 无駄を舍て、质素であれ
质素に生き、赘沢を避け、财を成すことなく、権力に执着しないことが、人としてのあるべき姿である。昔から贤き人が富を持つことはまずない。
唐の许由という人は、贮えというものを全く持たず、水すらも手のひらで饮んでいるような有り様だった。それを见た人が瓢箪(ひょうたん)制の器を与えたの だが、ある时、それを木の枝に挂けていたところ、风に吹かれて音を立てたことから、许由は「うるさい」と言って舍ててしまった。そして再び手ですくって水 を饮むようになったという。耳障りな音を立てる物がなくなって、どれほど心がすっきりしたことだろう。
孙晨(そんしん)は、冬场であっても挂け布団を持たなかったので、夜には一束あった藁を挂けて眠り、朝にはそれをしまったという。唐の 国の人々はこれらを素晴らしいことだと思ったからこそ书き残し、后世に伝えたのだろうが、我が国の人々はこういった话を语り伝えるようなこともないだろ う。
第51段 プロにお任せ
亀山殿にある池に大堰川の水を引き入れようと、周囲に住む民に命じて水车を作らせたことがあったという。多くの费用と日数をかけて作り上げたのはいいが、 どうしたことだろうか、一向に回ろうとしない。あれやこれやと手直ししたものの结局どうにもならなかった。そこで水车で有名な宇治の里の者を呼んで作らせ たところ、いとも简単に组み上げてみせ、水车は思いどおりに回り、见事に水を汲み入れることができたという。
何事もその道に通じている者は、尊ばれるものである。
第52段 仁和寺にある法师
仁和寺にいた法师は、年老いるまで石清水八幡宫の参拝をしなかったことが気がかりであった。そこである时ふと思い立ち、一人歩いてお参りをすることにした という。そして石清水の麓にあった极楽寺やその隣の高良社などを拝み「これで见るものは全て见た」と思い込み、仁和寺に戻ろうとした。道すがら傍らの人に 向かって「长年の愿いをようやく果す事が出来ました。闻くにも胜って八幡様は尊いものでございましたな。ところで、参诣する人は皆、山へと登っていくよう なのだが、あれは一体何だったのだろうか。気にはなったのだが、神へお参りする事だけが目的だったので山までは见ませんでした」と语ったという。
ちょっとしたことであっても、案内する人はあってほしいものである。
第109段 木登りの男
名高い木登りの男の话。ある时、この男が人を使って高い木に登らせ、梢を切り落とす作业をその下で见ていた。见ているこちらも恐ろしくなる程の高さにいる 时には一切口を出さずにいたが、仕事を终え、屋根ほどの高さにまで降りてくる段になってから「気をつけて降りてこい」と言叶をかけていた。不思议に思い 「あれほどの高さならば、飞び降りることもわけないでしょう。それなのになぜ今になって注意をするのでしょうか」と寻ねたところ、「目がくらむほどの高场 や、枝が折れてしまいそうな场所でしたら、谁が言わずとも自分自身で気をつけるものです。ですが事故というものは、大概にして安心しきった时に起きるもの でございます」と答えた。
身分の低い木登りの言叶ではあるが、圣人の教えにかなっている事実である。蹴鞠を楽しむ际も、难しい局面から余裕绰々に蹴り出したと思った时に限って、実はし损じてしまうものである。
摘自: 超现代语訳 徒然草 http://www.ks-cube.net/tsure/frame.html
第15段 旅に见る
その目的地がどこであろうと、しばらくの间旅に出ると新鲜な気持ちになれるものである。
旅の途上であちこち见て歩き、それが田舎びている所であったり山里であったならば、ことさら沢山の物珍しいものに触れることができる。都への近况确认の手纸に「あの事や例の事に関して、よろしく忘れないように頼む」と记すのもまた味なものだ。
旅行中だからこそ、様々なことにも気がつくものである。手持ちの道具までもが、良いものはなお良く思えるようになり、才のある人や美しい人もまた、いつもよりも素晴らしく立派に见えてくるものである。
寺や神社にそっとこもるのもまた趣深いものである。
第18段 无駄を舍て、质素であれ
质素に生き、赘沢を避け、财を成すことなく、権力に执着しないことが、人としてのあるべき姿である。昔から贤き人が富を持つことはまずない。
唐の许由という人は、贮えというものを全く持たず、水すらも手のひらで饮んでいるような有り様だった。それを见た人が瓢箪(ひょうたん)制の器を与えたの だが、ある时、それを木の枝に挂けていたところ、风に吹かれて音を立てたことから、许由は「うるさい」と言って舍ててしまった。そして再び手ですくって水 を饮むようになったという。耳障りな音を立てる物がなくなって、どれほど心がすっきりしたことだろう。
孙晨(そんしん)は、冬场であっても挂け布団を持たなかったので、夜には一束あった藁を挂けて眠り、朝にはそれをしまったという。唐の 国の人々はこれらを素晴らしいことだと思ったからこそ书き残し、后世に伝えたのだろうが、我が国の人々はこういった话を语り伝えるようなこともないだろ う。
第51段 プロにお任せ
亀山殿にある池に大堰川の水を引き入れようと、周囲に住む民に命じて水车を作らせたことがあったという。多くの费用と日数をかけて作り上げたのはいいが、 どうしたことだろうか、一向に回ろうとしない。あれやこれやと手直ししたものの结局どうにもならなかった。そこで水车で有名な宇治の里の者を呼んで作らせ たところ、いとも简単に组み上げてみせ、水车は思いどおりに回り、见事に水を汲み入れることができたという。
何事もその道に通じている者は、尊ばれるものである。
第52段 仁和寺にある法师
仁和寺にいた法师は、年老いるまで石清水八幡宫の参拝をしなかったことが気がかりであった。そこである时ふと思い立ち、一人歩いてお参りをすることにした という。そして石清水の麓にあった极楽寺やその隣の高良社などを拝み「これで见るものは全て见た」と思い込み、仁和寺に戻ろうとした。道すがら傍らの人に 向かって「长年の愿いをようやく果す事が出来ました。闻くにも胜って八幡様は尊いものでございましたな。ところで、参诣する人は皆、山へと登っていくよう なのだが、あれは一体何だったのだろうか。気にはなったのだが、神へお参りする事だけが目的だったので山までは见ませんでした」と语ったという。
ちょっとしたことであっても、案内する人はあってほしいものである。
第109段 木登りの男
名高い木登りの男の话。ある时、この男が人を使って高い木に登らせ、梢を切り落とす作业をその下で见ていた。见ているこちらも恐ろしくなる程の高さにいる 时には一切口を出さずにいたが、仕事を终え、屋根ほどの高さにまで降りてくる段になってから「気をつけて降りてこい」と言叶をかけていた。不思议に思い 「あれほどの高さならば、飞び降りることもわけないでしょう。それなのになぜ今になって注意をするのでしょうか」と寻ねたところ、「目がくらむほどの高场 や、枝が折れてしまいそうな场所でしたら、谁が言わずとも自分自身で気をつけるものです。ですが事故というものは、大概にして安心しきった时に起きるもの でございます」と答えた。
身分の低い木登りの言叶ではあるが、圣人の教えにかなっている事実である。蹴鞠を楽しむ际も、难しい局面から余裕绰々に蹴り出したと思った时に限って、実はし损じてしまうものである。
摘自: 超现代语訳 徒然草 http://www.ks-cube.net/tsure/frame.html
全部回答
- 1楼网友:不甚了了
- 2021-02-01 06:22
所作のないままに一日中、砚に向かって心に浮かんでは消えるとりとめない事を书き连ねているともうもの狂わしいような気持ちになってくるものだ。
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